舞妓倶楽部 映像・画像を通して、京都五花街・舞妓さんの新しい魅力を創造

五花街(ごかがい)について

京都MAP

 

「舞妓さんは、どこには住んでいるの?どこに行けば舞妓さんが見られるの? 」と、よく聞かれます。

この5つの花街は総称として、五花街(ごかがい)と呼ばれ、京都には、

上七軒・祇園甲部・祇園東・先斗町・宮川町

という5つの花街があります。

 まるで昔にタイムスリップしたかのような雰囲気、はんなりとした空気のなかにも、凛とした緊張感がどの街にも醸しだされています。

それは、伝統としきたりをしっかりと受け継ぎ守ってきたからこそ、何事にもぶれることのない強さの表れなのでしょうか…

そして、そこで生きる芸妓さん、舞妓さん達は、京都のみならぬ、日本の美徳の伝承者といえることでしょう。

 

 

上七軒(かみしちけん)

上七軒

室町時代、北野天満宮が火事にみまわれ、その修復作業の際に残った材木を譲り受け、七軒のお茶屋を建てたことが始まりで、当時は、七軒茶屋と呼ばれていました。

それ以来、北野天満宮の門前茶屋として栄えてきた街です。

他の4つの花街とは、少し離れた場所にありますが、五花街の中で最も歴史のある最古の花街と伝えられています。

紋章は、太閤秀吉がお気に入りだった「五つ団子」で円が描かれています。

 上七軒の紋章

上七軒紋章室町時代の頃、北野天満宮の修造に併せ七軒のお茶屋が建てられたのが起こりです。

その後、太閤秀吉が北野犬茶会を催したおり、名物の御手洗団子を献上したところいたく褒められ御手洗団子を商う特権と法会茶屋株を賜りました。

五つ団子の紋章を用いるのはこの御手洗団子に由来するのであります。

 

 

 

祇園甲部(ぎおんこうぶ)

祇園甲部

八坂神社の参拝者でにぎわう門前町で、水茶屋として栄え、五花街の中で一番大規模な街です。

文学者の題材や歌舞伎などの舞台にもなったことから、世間での著名度も一番高く、現在でも、花街と聞けば祇園、と発想される方も少なくないでしょう。

また、大石内蔵助で有名になった一力茶屋があることでも知られています。

紋章は、街の8町内にちなんで、8個の「つなぎ団子」の中に、「甲」の一文字が描かれています。

祇園甲部の紋章

祇園甲部紋章嘉永四年(一七四万、組内八ヶ町の頭文字を円形でっなぎ、その中に『祇』の字を白抜きにしたものでしたが、明治になって甲・乙の二部に分離された時、団子つなぎの中の『祇』に変わり『甲』が入れられ今日に至っています。

 

 

 

 

祇園東(ぎおんひがし)

祇園東江戸時代に、御所を火災から守る任を与えられた、今でいう滋賀県の江州膳所藩の邸宅があった屋敷跡に、お茶屋が数軒建てられ、祇園甲部と同様に、八坂神社の門前茶屋として栄えてきました。

五花街の中では、こじんまりとした街で舞妓さんの人数も一番少ないのですが、今年から街内に祇園花月ができ、歴史と現代の融合する街となりました。

紋章は甲部と同じ「つなぎ団子」ですが、輪のなかに文字は描かれません。

 祇園東の紋章

祇園東紋章店時代の由緒からヽ御手洗団子を八つ並べた創案は、祇園甲部と同じですが、明治十四年の分離の際、団子つなぎとなって、昭和三十年頃に祇園東お茶屋組合となり今日ではつなぎ団子だけになっています。

  

 

 

先斗町(ぽんとちょう)

先斗町鴨川に沿ってのびる車両は通れない細い通りに位置し、ユニークな読み方は、ポルトガル語で「先っぽ」を意味する「ポント」が語源といわれています。

高瀬川を往来する高瀬舟へ乗船する人々へ向けて、自然と発生した旅籠や茶屋から栄えてきたといわれています。

紋章は、可愛らしい「千鳥紋」で、冬場に鴨川を飛び交う千鳥の様子が、そのまま描かれています。

 先斗町の紋章

先斗町紋章そもそもは加茂川西岸に、納涼客を対象として茶店が出されたのが起こりですが、紋章は、明治五年、鴨川をどりが初めて開催された際創案されたものです。

用いられている千鳥は、加茂川の冬に情趣を語る名物のひとつで、詩情豊かに心にしみる、いかにも京都の花街らしい紋章です。

 

 

 

宮川町(みやがわちょう)

宮川町芝居との縁が深く、栄えた街といわれています。

歌舞伎で有名な出雲の阿国の小屋をはじめ、数々の芝居小屋が建ち並ぶことによって、それに出演する役者や、観劇するお客様のための宿が増えていったことが、現在の街の礎となったといわれています。

紋章は「三つ輪」で、社寺・町家・花街の三者が合流して学校施設とした記念説や、宮川の故事から三体の神輿を象徴したとも、宮川の「みや」の語呂合わせとの説があります。

 宮川町の紋章

宮川町紋章三つ輪は、芸妓育成機関の女紅場が府立となったおり、寺社、町家、花街の三行が合流して学校施設とした記念とされています。

明治中期から使用されており、一説には、宮川の故事から三体の神輿を象徴したとも、宮川のみやを語呂の合う三輪として考案されたともいわれています。