幾岡屋 五代目店主 酒井小次郎氏

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“花街・祇園”のみならず、“女の生き様”見てきた八十七年

 

幾岡屋看板

八坂神社へ向かい四条通り沿いを歩いていくと、右手に見えるはこの看板

「わたし、1925年生まれでっしゃろ?あ、大正14年ね。そやから、昭和1年で1歳。昭和2年で2歳…年齢が数えやすいんですわ。もし今も昭和やったら、昭和87年で87歳ちゅうことやね!」

豪快な笑い声とともにこうおっしゃるのは“祇園の生き字引き”こと『幾岡屋』五代目店主の酒井小次郎さんだ。

こちらは、かんざし、櫛、帯締め、帯揚げ、扇、お座敷かご、根付、花名刺など…舞妓さんの小間物すべてを揃えた京小物の老舗店。創業は、なんと文久二年(1862年)。

二代目店主と交流の深かった“維新の三傑”のひとり、木戸孝允の愛妾だった祇園芸妓・幾松の名から一字をもらい、明治初年に現在の“幾岡屋”となった。三代目店主は美妓七人組のひとり、おれんさん。「祗園小唄」の作詞を手がけた長田幹彦や歌人の吉井勇らが祇園で遊んでいた頃、その名を轟かせたべっぴん芸妓さんである。

彼女のあとを継ぎ、酒井さんの父親が四代目となり、昭和8年、酒井さん、33歳の時、代替わりのバトンを受けとって以来、今日に至る。

 

 

幾岡屋ご主人

五代目・酒井小次郎氏。四代目の父親もまた、有名芸妓・松本佐多のお茶屋「杏花」にふらっと出かけるなど、花街に精通し、花街をこよなく愛した人だった

「彼女もわたしと同い年の87歳。だん栄(だんえい)さんいうてね。今も現役の地方(じかた)としてがんばってはりますわ」

今年で140回めを迎えた『都おどり』のカタログに載っている芸妓さんの写真を指さして、酒井さんは少し目細めてから、ぱらぱらとページをめくった。そこには、現在活躍中の芸舞妓さんのあでやかな顔写真がずらりと並ぶ。

「今は大分少のうなってしもたけどねえ…。戦後、一番多い時で、祇園だけでも舞妓さんは120人くらいいてはったと思います。戦前ですか?えーっとね、多い時で、舞妓さんが200人、芸妓さん入れたら800人はいたんとちゃいますか。あ、そうそうこの人も元々祇園の芸妓さんやった方ですわ。この人に鬘(かつら)を作らせたら、もうそりゃ天下一品でした」

酒井さんが棚から取り出し見せてくれたのは、人形作家・山田奈美さんのご著書『人形結髪』。芸舞妓さんの結い髪を元にさまざまにアレンジを加え、すべて手作業によって作られたという芸術的な鬘を披露した写真集である。山田さんは芸妓を辞めて、作家に転向されてからも京都に暮らしていたそうだが、晩年、この地を離れ、隠居生活に入ることになった。“お別れ会”をしたのが彼女に逢ったさいごだったという。

 

花のかんざし

舞妓さんの花簪の布地部分はすべて絹。染めから縫いまで職人の手で作られている

 

総銀のかんざし

「姫型」、「扇」とも呼ばれる総銀のビラカンは、舞妓さんの装飾品。芸妓さんは使わない。左側に挿すつまみかんざしとともに、髷の右側に飾る

「あの人は結婚もしてはらんかったし、身寄りがあらへんかったから、亡くなりはったあと、お弟子さんがたしか鬘を美術館に寄付しはったんです。もう随分前のことになりますけど。生きてたら110歳くらいになるかなあ…」酒井さんの言葉の響きに、なんとも言えない懐かしさと優しさが感じられて、私も切なくなった。色褪せた写真集のページが過ぎ去った時の流れを確かに知らせていた。その一冊の重みに彼女の一途な生き方が表れているようにみえた。

同じ女性として、私は思う。女ひとりで芸妓として身を立てて、その後も嫁がず、頼れる身内もなく、我が道を生き抜くということは、その時代、どんなに大変だっただろうかと。自らが好んで結婚をせずに、自立した道を行く女性もどんどん増えているが、今と昔とでは状況があまりにも違いすぎる。現代を生きる女性たちにとって、今のこの社会は、極論、男性と同じ土俵に立ち、本人が望むならば、遺憾なく持ちうる能力を発揮することができる。

自分次第で如何様にも拓いていけるということだ。山田さんにお逢いしたことはないので、あくまで時代背景をふまえたうえでの想像にはなってしまうのだけれど、より強くよりしなやかな心の持ち主でなければ、きっと成し遂げられなかった、実に一本気な女の生き様だと思う。

 

 

同級生は、舞妓さんにお茶屋の息子… 早熟な少年時代 

祇園東叶笑さん

「お父さん、こんにちは」-酒井さんを見つけるなり、おつかいに来られた浴衣姿の祇園東舞妓・叶笑(かのえみ)さんがごあいさつ。耳に心地良いやんわりとした花街独特のアクセント。可憐な佇まい。周りのお客さんたちは買い物するのも忘れて、しばし見惚れていた…

祇園生まれの祇園育ち。江戸っ子ならぬ、生粋の祇園男。もとより、酒井さんは幼い頃から、呼吸するような自然さで、この街の移り変わりを目で見て、肌で感じ、体感しながら生きてこられた。

「私が小学校三~四年の時分、今でいう東新地とか宮川町の辺りは、お茶屋さんとソープランドが混在しとったんですわ。女湯もぎょうさんあってね。“ええもん見せたるわ”いうて、その辺に住んでる友達に誘われて、上の階に上がると、夜ですからまあ真っ暗で。“向こう見てみぃ”言われて、灯りのある方に目をやると、開けっ放しの女湯から、大人の女の人らの裸が丸見えで…。説明されて、“へぇ~”ってね」

舌をぺろりと出して笑うお顔に、やんちゃな少年時代の面影がよぎる。酒井さんが通っていた祇園町の小学校には、お茶屋の家娘や芸妓さんの娘など、花街と縁のある同級生がたくさんいた。

現在、舞妓さん志願者は、中学校を卒業してからでないと“仕込みさん”として屋形に住み込み、修業をはじめることはできない。これはどの花街でも同じで舞妓さんの平均年齢は、15歳~20、21歳。しかし、酒井さんが小学生だった当時は、11~12歳でお店だし(舞妓さんとしてデビューすること)するのがごくあたりまえだったという。

舞妓さんに出ることが決まっている女生徒たちは、高学年になると午前中だけ授業を受けて、午後は祗園甲部の芸舞妓さんのお稽古場、八坂女紅場学園へと向かい、芸の鍛錬に励んだのだそうだ。同じ祇園に育った者同士とはいえ、同年代の多感な男の子たちの目には、異世界に生きる特別な存在であると同時に、彼女たちがさぞ眩しく、煌めいて見えていたのではないだろうか。

 

職人の技巧職人の技巧

職人の技巧職人の技巧

色の博物館のような店内。どの小物にも丹念な職人の技巧が感じ取れる

この頃の酒井さんはというと、木屋町~河原町、京極~新京極あたりの“遊び場”にお茶屋の息子やその他、商売人の息子たちといっしょになって出かけることが増えていた。「もちろん、子供の遊び場でっせ!」とご本人がおっしゃるように、当時は未成年でも夜遅くまで出入りできる場所がそこかしこにあった。コリントゲームやスマートボールに夢中になってみたり、うどんをたらふく食べたり…。

 

「あの子らは親から小遣いぎょうさんもらって、“ほら、これでどっか行って遊んできぃ”言われてね、私を誘いにきよるんです。だから、全部おごりなんですわ(笑)!実家がお茶屋で、年頃の男の子がうろちょろしとったら、商売にひびくからねえ…」

 

舞妓さん、芸妓さんになるのは当然、女の子。お茶屋、屋形の跡を継ぐのも、女性。酒井さんのお話を聞いていると、女性社会の花街でお茶屋に生まれた男の子というのは、実に難儀だなと思わずにはいられなかった。

 

普通なら、親にお小遣いを渡されて、「好きに遊んでおいで」と言われて、喜ばない子供はいないだろう。しかし、年頃になったお茶屋の息子たちは、他所に居場所を求めざるを得ない環境にいた。何もやましいことがなくても、親の商売柄上、“男の子”という異性としてそこに居ることで、「あの舞妓さんと恋仲とちゃうんやろうか」などとお客さんのあいだで良からぬ噂が立ちかねないからだ。

 

中学に入る頃には養子に出されたり、どれだけ遅くても14歳くらいまでには遠方の親戚に預けられるなどして、生家を離れる。かつての遊び仲間だった男の子たちとも、「たまにばったり街で会うくらいやったね…」。花街の風習、家の事情…。避けては通れないものではあるけれど、今もなお、酒井さんの中で鮮やかに息づく想い出の数々…。彼らは離れたくて離れたわけではない。でも離れざるを得なかった。ご本人たちがもしその胸中を振り返るなら、きっと、青春時代特有の甘酸っぱさというより、儚い幻影に近いのではないだろうか。いつの時代も、人の心とはうらはらな現実がすこしだけにくらしく思えた。

 

 

大事に、大事に、守り続けてきた“はんなりの境地”

 

「まあ、ほんまにねぇ、よう生き延びてきた思いますわ」煙草を美味そうにくゆらせながら、にやっと笑って酒井さんはいう。その瞬間、何かが近づいてきたのを感じて私はハッとした。出張ウェイトレスらしき女性がすぐそばにいて、銀色のトレイからアイスコーヒーをひとつ差し出してくれたのだった。

「ご主人の分は?」と尋ねると、「わたしは大丈夫ですから、どうぞ、どうぞ」と言いながら、首を右から左へゆっくりと動かした。さすがは150年続く由緒ある大店(おおだな)の主である。酒井さんが常時座っている特等席からは、幾岡屋の店内が一望できてしまうのだ。テーブル越しに向かい合うようにして座っていた私もつられて振り向くと、溢れんばかりのお客さんたちで賑わっていた。そして、話は続いた。

 

「あれは強制やったからねぇ。健康やったら、みんな男は学徒動員に行かなあかんかった。私はね、千葉の松戸。あそこの工兵予備士官学校に入隊しましてね。その後は、柏にも行きました。軍隊に行ってたんは8ヶ月ほどやったけど、ほんまに濃い時間でしたね…」

 

兵役したのは、昭和19年、酒井さんが同志社高商(現在の同志社大学商学部)の二回生の時のことだ。翌年5月、大空襲におそわれた東京へと急遽わたり、被災者の救助や皇居の焼け跡の整理を行った。

 

八坂神社 粽

 

終戦を迎えたのち、石炭のごとくすし詰めの貨車に乗り、初秋の祇園町へ舞い戻るも、家には誰もいない。家の中は足の踏み場もないほどに瓦解されていたという。その後、疎開していたご両親とは無事会えたが、大阪に嫁いだお姉さんは、空襲で亡くなってしまった。

「祇園とは思えへん町並みに変わってました。お茶屋も家もみんな壊されて更地になっとるわ、道幅がやけに広くなっとるわで、何がどこにあるか記憶をたどっても分かりまへんでした。あとになって両親から聞いたことですけど、ほんまはうちも8月20日に全部引き倒すことになっとったらしいんですが、幸い、終戦で中止になりましてね。そやけど、戦後、花街の復興は早かったですわ」

酒井さんいわく、昭和21年ごろにはもう、祇園町に客足が伸びはじめていたという。しかし一方では、遊女屋に女性を売る女衒(ぜげん)がおり、日本全国から集められてきた若い女性たちの人生はこの“判人”によって否応なく決められていたというのもまた事実だったそうだ。

「こんなんいうたらあれやけど、そりゃ、べっぴんさんやったら、当然、舞妓さんにならはる方にいきはったんとちゃいますか。酷なことやけどね…今では考えられまへんけど、これまあ、女衒っちゅうんは、完全に公に認められとったもんでした」。

 

うちわのかんざし幾岡屋2梅、桜、ふじ、キキョウ…舞妓さんというと、季節の花をイメージすることが多いが、団扇もまた欠かせない代表的なモチーフのひとつである

 

それから6年後、酒井さん、27歳の時、奥さまと結婚。“物のない時代”にいっしょになり、それ以来、今日に至るまで、公私共にパートナーとして支え合いながら、幾岡屋を営んでこられた。

現在では、京都五花街のほか、会津若松、東京では新橋・向島・浅草、芸妓さんのいる温泉街…と日本全国に長年ご贔屓の得意先がある。芸舞妓さん用の物だけにとどまらず、一般向けの商品も幅広く揃っている。七五三・成人式の髪飾り、鏡、香、紅、ぽち袋、夏団扇、かご袋物、風呂敷…。電子辞書ケースや幾岡屋オリジナルのあぶらとり紙もあり、見ているだけでも心躍る豊富なバラエティだ。

インタビューのさいごに、店の構えの写真を撮らせていただこうと、許可を得てから、カメラ片手に一旦外に出た。四条大橋と八坂神社を結ぶ四条通りには、ひっきりなしに人々が行き交う。店先に並んだ舞妓さんの誂え名入りのうちわは圧巻。それに引き寄せられるかのように次々と訪れる人々…。入り口をくぐるとそこは、色とりどりの逸品たちが出迎えてくれる“はんなりの境地”、まさに桃源郷である。その主であり、大正、昭和、平成と三つの時代をこの店と共に笑い、泣き、力強く生き抜いてきた酒井さんをたとえるとしたら…茶目っけたっぷりの“守り神”がぴったりだろう。

 

 

 

 



Photos:Copyright(c)2012 Maiko Club All Rights Reserved



 



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